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川崎アワード

第22回 松尾芭蕉の門弟御一同 様

芭蕉の句碑&ポケットパーク

京浜急行とJR南部線が重なる『八丁畷』駅。
八丁畷は、川崎駅から歩いても20分足らずのところにあり、交通の便はもちろん商店街やスーパーなども多く、生活しやすい場所として人気のある場所です。

駅前のマンション前の歩道には「東海道」と書かれた石があり、その周りには彩りよく植えられた植木がある。<br>
駅前のマンション前の歩道には「東海道」と書かれた石があり、その周りには彩りよく植えられた植木がある。
植木の中を通り抜けられるブロックで作られた細い道。歩道でなくわざわざここを歩いて駅に行く人もちらほら。
植木の中を通り抜けられるブロックで作られた細い道。歩道でなくわざわざここを歩いて駅に行く人もちらほら。
踏切横を入った敷地内には『無縁塚』と呼ばれる塚があります。

東海道五十三次のひとつとしても有名な川崎。昔は多くの人々が旅をするためにここを歩いていきました。しかし、悲しくも災害などで旅の途中に命を落とした人のために、昭和になってからこの無縁塚が建てられたのだそうです。
八丁畷の由来と人骨

江戸時代日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場のあたり)へいたります。この区間は八丁(約870メートル)あり、畷(なわて)といって、道が田畑の中をまっすぐに伸びていましたので、この地を八丁畷と呼ぶようになりました。
 八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になってからも道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代頃の特徴を備えた人骨であることが判明しました。
 江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらくそうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
 不幸にして落命した人々の霊を供養するため、地元では昭和9年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てました。
(川崎市教育委員会による無縁塚横の説明書きより)
イラスト入りで八丁畷の由来が書かれています。
イラスト入りで八丁畷の由来が書かれています。
無縁塚の横にこんなきれいなモザイクが。<br>下に東海道五十三次<br>広重 画 川崎「六郷渡舟」より と書いてありました。
無縁塚の横にこんなきれいなモザイクが。
下に東海道五十三次
広重 画 川崎「六郷渡舟」より と書いてありました。
私がモザイクの写真を撮っていたら、通りがかりのおじさんが、
『これは遠くから撮らないと絵がきれいに見えないから、道のあっちがわに行って撮りなさい』
と教えてくれました。
でも、けっこうきれに撮れてると思うんだけどなぁ… もっと遠くに行かないとだめ?
『そうだー、その辺から撮れ~~!』<br>おじさん(画面左側)の指示のもと写真を撮るも、小さすぎてわからず。
『そうだー、その辺から撮れ~~!』
おじさん(画面左側)の指示のもと写真を撮るも、小さすぎてわからず。
五十三次の歴史を垣間見れる町、この八丁畷には芭蕉に関するものがあるとか。
いつもながらほとんど取材の準備なしにふらっと訪れてしまったわけで、その「もの」がある場所もいまいち把握できていません。

やはりいつものように人に聞きながら歩かなくては。駅の近くにいるおじさんに聞いてみよう。
昭和の香り漂う、踏切番の“箱”<br>八丁畷駅前の踏切には係の人がいて、歩く人が危なくないように見ていてくれるのだ。
昭和の香り漂う、踏切番の“箱”
八丁畷駅前の踏切には係の人がいて、歩く人が危なくないように見ていてくれるのだ。
踏み切り近くにいた、駅員さんに芭蕉の句碑のあるところを聞いてみました。

「すぐそこだよ、ほら、1800円の前」

おじさん、1800円の前っていう意味がわかんないんですけど…

「あれだよあれ!」

親切なおじさんは、私の背中を指圧するように指で押しながら1800円の近くまで一緒に行ってくれました。
あ、電柱に句碑への矢印が書いてある!<br>でもせっかくおじさんが背中を押してくれるのでおまかせしよう。
あ、電柱に句碑への矢印が書いてある!
でもせっかくおじさんが背中を押してくれるのでおまかせしよう。
あった。<br>1800円が近づいてきた!
あった。
1800円が近づいてきた!
通り沿いにひっそりとたたずむ「芭蕉の句碑」。
通り沿いにひっそりとたたずむ「芭蕉の句碑」。
ありがとう、おじさん。
ほんとに1800円のところでした。

駅からほんの100メートルばかりの場所。
あまりに当たり前のようにあるので、立ち止まってこれを見る人もまったくいません。
ちゃんと屋根もあり、句碑は大事に保存されている様子。
ちゃんと屋根もあり、句碑は大事に保存されている様子。
麦の別れ、という句碑です。
麦の別れ、という句碑です。
麦の別れ

元禄7年1694年5月11日(現在の6月下旬)に、俳人芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国拓植庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛け茶屋でだんごを食べながら休憩しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は

麦の穂を たよりにつかむ 別れかな

と返歌し弟子たちの新設を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。
川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり街道の両側は一面の田畑でした。このあたりによしずばりの掛け茶屋ができ鮭や一膳飯を売っていました。芭蕉はこの年の十月大阪で亡くなったのでこれが関東の最後の別れとなりました。

(芭蕉の碑保存会 川崎史話 小塚光治著より抜粋)
え、ここ??<br>うっかりしてると通り過ぎてしまうくらい、ほんとにポケットサイズ。
え、ここ??
うっかりしてると通り過ぎてしまうくらい、ほんとにポケットサイズ。
川崎市内には、このほかにも4つ、神奈川県下には60以上の芭蕉の句碑がありますが、実際に句を読んだ地に建てられた碑は少なく、大変貴重なものだそう。

そして、この句碑からまた少し歩いていくと、芭蕉ポケットパークという小さな休憩場所があります。
いくつかの丸いベンチがあって、散歩の休憩にちょうどよさそう。
いくつかの丸いベンチがあって、散歩の休憩にちょうどよさそう。
ポケットパークのシンボルになっている石柱。
ポケットパークのシンボルになっている石柱。
芭蕉ポケットパークは、芭蕉の句からイメージされる麦畑に見立てた植栽などの演出は、市民の意見や要望を採用して作られました。

ベンチのある足元には、7人の門弟の句が刻まれた石盤が埋め込まれていて、さらに石柱には22人の門弟の句も刻まれています。

足元にはこんな石盤が。
足元にはこんな石盤が。
石柱の裏側は、なんと自販機!<br>
石柱の裏側は、なんと自販機!
ごみを捨てる場所も、デザインの一部のよう。
ごみを捨てる場所も、デザインの一部のよう。
ベンチに座ってコーラを飲みながら、芭蕉の時代に思いを馳せる…

このポケットパークは、ほとんど脚光を浴びることのなかった門弟たちにスポットをあてた施設。

門弟たちも、師匠と最後の別れとなってしまったこの場所が、このようにいつまでも忘れずに碑となって自分たちの歴史を伝えるようになるとは思ってもみなかったことでしょうね…
町内会館は「麦の郷」なのだ。
町内会館は「麦の郷」なのだ。
八丁畷には、句碑やポケットパークのほかにもまだ芭蕉にかかわる場所が!

それがここ、日進町町内会館。ここは『麦の郷』と名づけられ、建物の前には江戸時代の川崎宿が描かれた東海道分間延絵図の銅版があります。

初めてここに来た人だって「麦の郷って何?」っていう一言から、その由来や歴史など、この地であった出来事を聞いたら、この町への親近感が倍増すること間違いなし!

芭蕉と門弟たちの悲しい別れとなったこの場所だけど、今では地域の人たちが集い、新しい出会いを生む場所になっているのです。


東海道と松尾芭蕉と、そしてその門弟の皆様、表彰します!
東海道と松尾芭蕉と、そしてその門弟の皆様、表彰します!
芭蕉の句碑(麦の別れ)
芭蕉ポケットパーク

京急・JR「八丁畷」駅より徒歩2~3分